声明

 

子どもたちの自由と未来を守るために、私たちは「国葬」と「弔意の強制」に反対します。

ウクライナをはじめ、今でも世界で繰り返される戦争と戦争の準備は、

 

                                           子どもたちの自由、文化、教育、未来と、絶対に両立することはできない。

 

2022年9月 美術教育を進める会

安倍元首相の銃撃事件の後、岸田首相は突然「国葬」の実施を閣議で決定しました。「日本でこんなことが起きるのか」と、多くの国民が衝撃を受けました。政治的な立場を超えて、お悔やみの行動も広がりました。しかしその後、銃撃事件の背景に「世界平和統一家庭連合・旧統一協(教)会」の問題があることが明らかになり、安倍元首相の「国葬」に対する疑念も広がりました。世論調査でも反対が50%を超えています。

銃撃から2か月が経過した今、多くの国民は、改めて、国葬とは何なのか、その法的な根拠はあるのか、憲法違反ではないのか、安倍元首相はそのような評価にふさわしい人物なのか、などの点を冷静に考えています。疑念は深まるばかりでした。

そもそも、園や学校で私たちが、目の前の子どもたちに見ず知らずの人への弔意を促すことなどできるはずがありません。加えて、「安倍元首相の国葬」という儀式が、子どもの心にどのような影響を及ぼすのかが気がかりです。やはり、今回の閣議決定は撤回されるべきです。

 

かつて、大日本帝国憲法の下の「国葬」は、時の政治指導者などを「国民がこぞって弔意を表すべき対象」として国家が示し、天皇中心の政治体制を維持強化することを目的とした国家的行事でした。法の下での平等や内心の自由を謳う日本国憲法の理念と「特別な人」のための「国葬」が両立できないことは明らかです。

国葬という形式は「特別な人」への批判や疑念を抑圧する働きがあります。有形無形に強制される弔意は、子どもの目からは奇妙と思える大人たちのふるまいを誘発します。そうした大人、保育者、教師の姿を子どもたちはどう受け取り、何を感じ、何を心に刻みこむのでしょうか。

 

戦前の学校教育の場では、国家の意向に沿った方向に子どもを導くことが当然と考えられていました。「教育勅語」に基づき、国策である朝鮮、中国、アジア地域への侵略と太平洋戦争を賛美し、それを積極的に担っていく青年・臣民づくりを進めました。そうした教育の中核に、様々な「儀式」があり「国葬」もその最大のものとして機能してきたことを忘れるわけにいきません。

 

2000万人ともいわれるアジア太平洋戦争での人命の犠牲の上に、私たちは日本国憲法を獲得しました。基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」とされ、各条文には、個人の尊重と平等などの原則が謳われています。戦後の保育・教育は、この憲法の「理想の実現は、根本において教育の力に待つべきものである」とした1947年版教育基本法により、尊厳ある個人の内在的な力に信頼し、障がいのあるなしや貧富の差、出自などの違いや格差を乗り越え、「人格の完成」をその目的にすえて開始されました。

 

戦争放棄を憲法に謳う戦後の日本では、全国各地で戦争を語り継ぐ活動が続けられ、憲法の平和主義は、「あの悲惨な戦争を二度と起こしてはならない」「核兵器は絶対的悪である」という共通の思いとなって国民の中に定着してきました。それは同時に、「戦争につながる動きには、どんな小さなものであっても、また小さな動きのうちに、勇気をもって否といわなければならない」という意思と行動を生み、日本の軍事大国化や核武装、戦争行動への参加・協力を阻んできました。全国津々浦々の園・学校で粘り強く続けられてきた「平和教育」は、そうした戦後日本の平和的な国民意識の形成に寄与する、歴史的意義のある取り組みと言えるでしょう。

 

昨年国連で発効した「核兵器禁止条約」は、長年の私たちの願いと運動がになったものであり希望です。しかし、日本政府は6月にウイーンで開かれた「第1回核兵器禁止条約締結国会議」への参加を拒否し、この条約への参加を拒否し続けています。今年2月には、ロシアによるウクライナ侵略戦争がはじまり、核兵器の使用が現実味を帯びています。戦争の抑止や国土防衛を理由に、新しい核兵器の開発や軍備拡大、軍事同盟強化などの動きが強まり、「戦争の準備」が進んでしまいました。

中学校美術の授業の中で、「先生、中国は攻めてくるのかなあ」「その時僕たちは、軍隊に徴兵されるんですか」と平和や戦争をイメージした子どもたちの抽象表現作品や教科書に掲載されているゲルニカを囲んで、真剣な討論が行われたという報告がありました。また、戦争のニュース映像に突然怖くなって泣き出してしまう幼児や小学校低学年の児童の存在も決して珍しくありません。子どもたちは、かつてなく戦争を身近なものとして感じ取っています。

 

貪欲に利潤を求める経済システムが世界中に広がり、大きな格差が人々を苦しめています。それは、熱波や豪雨の襲来に象徴される地球環境問題の深刻化と先送りを生み、未来の地球の「負債」となって蓄積されています。そうした深刻で全世界的な問題の存在を敏感に感じ取り、今までの人類の経済、文化を問い直す活動が広がりました。その中心には、いつも国境を越えて連帯し行動する若者たちがいました。今、私たちと私たちの目の前にいる子どもたちが共通に求めているのは、地球の抱える沢山の課題を解決していく新しい知恵と共同です。保育・教育に携わる私たちも、「平和と共生」の未来を作り上げていく意志と力を子どもたちの中に育むことにつながる美術教育を進め、ともに希望を紡いでいこうと願ってきました。

 

こんな子どもたちの未来に、「国葬」と「国葬の醸し出す空気」は何をもたらすでしょうか。学校や教職員への半旗の強要、華美な行事の自粛、安倍氏の追悼番組に占領されるテレビ・・・。子どもに必要なのは、大人たちの作り出す「弔意」や対立、混乱の姿ではありません。どんな時でも、子どもが自分の意見や思いを自由に表明(表現)でき、それを温かく見守り応答する大人たち(保育者、教師)の存在です。子どもに何かを押し付けることではありません。

 

今回の岸田首相による唐突な国葬実施の決定は、個人の追悼に名を借りた安倍氏の進めてきた政治と安倍氏個人を「神格化」する戦前的政治手法そのものです。私たちは、内心の自由、表現の自由、個人の尊厳と平等などの基本的人権につながる「子どもの造形表現活動」の教育を研究し実践する者として、「あらゆる戦争と戦争の準備は、人間の自由、文化、教育、未来と両立することはできない」という人と文化を支える大事な理念の立場から、「安倍元首相の国葬」を最大の警戒心をもって受け止めざるを得ません。

 

政府は直ちに国葬の中止を決定し、すべての国民は平等で自由であることを表明するとともに、保育・教育の現場に「特別に偉い人」の存在を意識づけようとするいかなる指導や要請も行わないことを求めます。同時に、世界で戦争が止まらない今、私たちは、保育・教育の現場において、常に「子どもの最善の利益」と「戦争を拒否し、平和を実現すること」を基準に物事を判断し実践することをここに書きとどめ、決意とします。