美術教育を進める会 32年の歩み
                            1992年発行 進める会記念誌「思春期の教育」より抜粋)

「人格の形成と結合した美術教育を進めよう」(丸ごとの発達と美術教育)

 

◇はじめに
 1945年の8月、15年戦争とも言われる第二次世界大戦の長い抑圧の時代から私たちは解放されました。日本の教育運動もまた子どもの解放をめざして、民主的な教育の創造へのさまざまな取り組みが開始され、広がっていきました。多くの民間研究団体の誕生がそれです。そのような息吹の中で1959年(昭和34年)4月に美術教育を進める会(以下、会という)も創設されました。以来、今年で32周年を迎えることとなりました。
  大勝恵一郎、浜本昌宏の提唱によって発足した会のスローガンは「セクトを乗り越えて前進しよう」でした。このスローガンは今日的にも未来的にも大きな意義を秘めていると思います。その前年の1958年には、全国的に、教職員に対する「勤務評定」(勤評)が強行されるなかで、国民の教育権を改めて問い直し、真理・真実にもとづく教育の確立へ向けての戦いが澎湃として展開されていました。そのような中での会の誕生は、きわめて必然性をもっていたと言えます。
  32周年を迎えた今日、「臨時教育審議会(臨教審)体制」の中での教育課程の改訂という、その規模と質からいって勤評を上回る新しい攻撃に直面しています。私たちはあらためて会創立の初心に立ち返り、子どもたちの真実を花聞かせるために一層の英知を結集し広めていきたいと思います。この「小史」は、会創立32周年を契機に、そのような願いと位置づけのもとにまとめられたものです。32年にわたる私たちの運動の過程には、当然のことながら幾多の困難と浮き沈みがありました。しかし、そういう困難の中でこそ、次の新しい力強い芽が育ち、受け継がれ、発展してきたと思うのです。それには、すべの会員諸氏の努力はもちろんのこと、志を同じくする他団体、数知れぬ人々からの励ましと援助に支えられてきたからこそと、深く感謝の意を捧げるものです。                                  (佐藤)

 

◇創設期の理念と会の形成過程(1959~1966)


 (1) 「セクトを越えて手を結ぼう」
 創設者の一人である大勝恵一郎は、当時を次のように述懐しています。 「ようやく戦後の混乱が納まって、これからまた一つの新しい発展を遂げようとする時期であり、政府の方も一つの方向を強力に打ち出そうとする時代でもあった。また、戦後の組合運動の勢いを鎮めて、勤務評定をはじめとして官僚による権力の統制のイニシアチブをとろうとする時代でもあった。そうすることによって本当の教育への情熱が形骸化するだろうところまでは考えないようであった。(中略)そのために教育の内面化が難しい時代が続いた。私たちが『進める会』を構想したのは、教育の内面化を自ら保障する集団を作ることにあった。その意味では、政治の荒波と戦う側面と教育の内面化に限りなく迫るべき課題を持ったのである。」
  当時には大きく分けて二つの先行する民主的美術教育研究団体がありました。「新しい絵の会」と「創造美育協会」です。この二つの会の間での激しい論争は、どこかですれ違っていました。その中では、教祖的独断やそれぞれの会がよしとする作品にこだわるなどの傾向が強く感じられるようになりました。そこでこの両者を包み込むような美術教育の広場が必要だと考えられていったのです。とりわけ芸術教育の分野では、いかに自由を保障しあいながら、大同団結して民主的な運動を広げていくかが大切です。その契機に教育の内面追求を課題としました。「会」の創設理念はそこにあったのです。
  セクトとは党派のことです。とりわけ教育研究団体はその内面の深化と自由のために、セクトの超越と抑制が必要です。政治の大目標である「平和」とか「原爆廃棄」という概念がいつも授業の題目に入っていなくても、子どもの認識や発達の状況に応じて、美的な感動の範囲を広め豊かにすることで、平和と民主主義への意識は高められても低まることはありません。このことが見えなくなっていくとしだいに教条主義に陥ってしまいます。最も大切にしたかったのは、このように、しなやかにしかも大きな理想と理念を見失わない運動の展開をめざしたのです。」
ちなみに、その当時大勝恵一郎34才、浜本昌宏26才の青年教師でした。                  (大勝)

 

 (2) 会の発足
  1959年冬1月、大阪で全国教育研究集会が開かれました。勤務評定の強行などを反映して、かつてなく緊迫した熱のこもったものでした。東京の代表として参加していた二人(大勝・浜本)が、分科会の最終日にアピールを行い、連帯を呼びかけました。

 

-呼びかけ-  第八次教研参加 東京正会員有志より
 全国より参集された皆さん、当面の教育危機に対処する中で、美術教師・われらの教研サークルを、これを機に作りたいと思います。意義ある全国的なつながりにし、前進する、これからの美術教育の要にしたいと思います。
・主旨 現場美術教師の実践活動・思想・方向を有機的に深め、交流するための全国的な研究の場を作り、明日の子供の幸福を願う幅広い同志の、自由な、しかも厳しい研鑽の横関として、民主教育の確立を目指す。
・活動 小・中・高校や各地方のつながりを深めるための実践交流・作品交換や主張、意見の研鑽。各地、各学校の実地見学の組織確立・研究機関誌の発行、仮称「子供と美術」(年三回の予定)
・名称 仮称「子供と美術の会」
             -以下省略-

 

 この呼びかけにこたえて、青森の杉山久男ほか、北海道から九州までの15人の参加者があり、さらに東京を中心に佐藤晃、上昭二などの14人の結成準備委員会が誕生し、4月25日の発足に向かったのです。
  大勝の起草による宣言文には、「美術は、人間が心の奥底を訴えあって相互に深く結ばれるべきものである」から始まり、「子供の成長の過程、科学技術の視点、指導要領とアナクロニズム、植民地的教育に対する批判」などとつづき、「セクトを越えて民主教育の大道を胸を張って前進しよう」と結んでいます。
  
  この4月25日の感動を上昭二は次のように述べています。(「子供と美術」創刊号より一部転載)
……これまでにこの会の結成に当たっていろいろとご指導下さった美術教育界のベテランである上野省策氏、大田耕二氏、箕田源二郎氏、岡田清一氏、鈴木五郎氏、の先生方が出席下さり、……久保貞次郎氏よりの、この会に寄せる期待と激励の言葉が披露され…中略…。
  この会が作られようとした動機は3つあります。1つは、幼・小・中・高校教師の教研参加への推進母体となること。2、日常においても教師が広く交流し話し合えるような場が必要であること。3、美術教師が国家や政治の問題に関心を持って釆たが、特殊な立場の特殊な発言や話し合いではなく、一般市民としての美術教師と言う立場で話し合える機会があっても良い、ということにみんなの意見が一致しました。
  このようにして、会は誕生し、初代事務局長・大勝恵一郎のもとに活動が開始されました。同5月30日、機関誌「子供と美術」(後に「子どもと美術」に改称) が創刊されたのです。このころは、いわゆる安保改定阻止の大闘争の嵐と渦の中に明け暮れ、翌年の1961年には、全国一斉学力テストが強行されるなどのなかで、政治や教育の逆流に抗してたたかう日々でした。国をあげての激動のさなかだけに、会の集まりは厳しくもあり無理を伴っていました。しかしたとえ小人数であっても、淡々と会を守り続けたので、月一回の例会はオアシスのような希望の場になっていました。それは鳥居昭美が「この会に参加したことで自分が救われたし、人間らしさを回復することができた」と毎回のように喜びを語っていたことに象徴されています。常連には、大勝恵一郎、浜本昌宏、井上憲二、米良武子、佐藤晃、佐藤亮、鳥居昭美、鈴木寛男などがいました。
  当時は、大勝の小石川高校が研究会場として使われることが多く、実質的には第一回の夏の研究集会もここで開かれました。(テーマ=美術教育の方向を確かめ、具体的な方法を確立する。講師=上野省策氏) 
  翌1960年、作文の会、哲学者、物理学者などを囲んで幅広く学び、1961年の夏の研究集会は、状況の厳しさもあり、筑波山で行われた関東地区「教科研」に合流しました。
  1962年、浜本昌宏が二代目の事務局畏としてバトンを引き継ぎます。活動の輪を外に向け、生徒にも直接働きかける意味で、自主的な副読本「青年の美術」(大勝)、「美術の学習」(浜本)を出版しました。当時の教科書にはなかったシケイロスの絵やピカソのゲルニカなどが子どもたちにも紹介できると、厳しい状況の中でも胸をはずませたと言います。この取り組みの中で岡崎寛、佐藤恒などと出会い、菅沼嘉弘は愛知まで出かけて広めるなど、仲間が広がっていきました。
  1964年は、主体的に積極的にうってでた年と言えましょう。実質的には第3回大会ですが、第1回「美術教育を進める会・全国研究集会」を一ツ橋教育会館で開いたのです。並行して新宿では「幼児から青年までの美術展」を開き、大きな反響を得ました。「これなら子どもの絵の見方がよくわかるし、このような展覧会を待っていた」という声が多く寄せられました。 
  そのように会の活動が活発になるにつれて、当然のことながら組織の強化が求められます。全国的な教育運動が高揚していく中で「美術教育を進める会」もまた大きな羽ばたきを開始していきます。                  (浜本)

 

 

 中興への努力と全国組織への発展(1967~1977)

 

(1) 目的は一つ、仕事は分担 -事務局の集団体制の確立
  会創立6年目、大勝恵一郎、浜本昌宏の後を引き継ぎ、鳥居昭美を中心とする新しい事務局体制がスタートしました。はじめは、事務局長に鳥居、庶務に菅沼の二人体制でしたが、66年には財政に川本、渉外に浜本が分担することになり、70年度から研究部を創設し、大勝が分担することで研究団体にふさわしい組繊的な活動に一歩前進していきます。
  「目的は一つ、仕事は分担」が合言葉になりました。このころの会議といえばたいてい、運営委員の自宅で行われ、全国委員会は新宿・歌舞伎町の喫茶店『もん』の薄くらい片すみでした。しかし、そこでは同じような民主的な教師たちの熱っぽい議論が聞こえてきて、お互いに鼓舞しあっていました。この新しい事務局体制で最初に取り組んだのが第4回大会(芦花公園)、初めての一泊二日の大会でした。大会といっても2、30名程度の小さな集会ですが、前研究部長の新見俊昌が初めて参加し、東京から関西へと輪が広がって全国組織への足がかりができました。このときの研究テーマは、「人間疎外と美術教育」で、詩人・壺井繁治は講演の中で次のように述べています。「経済発展の中で人間的なものが日々失われて行くが、これを内部に沈潜させておくだけでなく外部に向かって闘っていくことが大切である」と。1960年代には「高度経済成長政策」のひずみが激化し、政治が右傾化し、教育では「勤評」「学テ」「期待される人間像」などと一連の攻撃の嵐が吹き荒れていました。一万、首都東京で初めての美濃部革新都政が1967年に誕生したのです。まさに「外部への闘い」を象徴する快挙でした。
  美術教育を進める会の研究の歩みも、まさにこのような国民的な教育課題の追求のうねりの中でともに進められてきたといえましょう。

 

(2) 子どもの発達についての基礎学習
  鳥居が、第四回大会から第七回大会(鳩の巣)までの研究の歩みを「子どもと美術」復刊2号(1971年)に報告しています。その内容を要約すると、
  ① 第4回大会での壷井繋治氏の「人間疎外と美術教育」
  ② 第5回大会(止水荘)での三島二郎氏(早大心理学)の講演から
  ・アベロンの野生児→発達には適時性がある
  ・孤立児→人間は社会から孤立されていても学習への要求がある
  ・類人猿との比較、言語獲得の発達的意味
  ③ 第6回大会(読売ランド)、三島二郎氏による発達の4つの側面について
  ・情動(8歳ぐらいで完成)
   ・知性(20歳ぐらいで完成)
   ・社会性(24~25歳ぐらいで完成)
   ・運動能力
    発達には順序とテンポがあり、4つの側面にもそれぞれある。
  ④ 第七回大会(鳩の巣)、三島二郎氏の講演
   ・生活中心主義の立場→古い児童観に対する批判から
  ・美意識の発達について
  ・カリキュラム縞成の二つの流れ→教科中心主義、経験中心主義
  また、会の発達研究で特筆すべきは、三島二郎氏を講師とする月2回の「発達講座」を、早稲田大学の三島研究室で全障研東京支部(支部長・横田滋)との共催で68年12月から二年間積み上げられたことです。
  このような四年間にわたる子どもの発達研究の成果が、研究ノートNO11「人間形成に貢献する美術教育」.(鳥居昭美著)においてさらに深められていますが、発達研究の重要性は、当時の歴史的な背景と私達の主体的条件からいって必然性をもっていました。すなわち、政府や財界が推し進める「差別・選別」「能力主義」の教育に対して、民主的な教育を求める国民の要求が渦巻いていたことです。政府や財界によるl「人づくり政策」について、中野光は「人的能力を労働力ととらえ、もっぱら経済発展に対して人的能力がどのよぅに寄与できるかを検討されたに過ぎなかった。いわば経済優先の論理が説かれ、子どもの人権や生活上の憂うべさ現実は視野のなかには収められていなかった」(『戦後の教育史』121貫)と述べています。
  このような教育政策が子どもの発達にさまざまなひずみを増幅していく根源であり、その本質において今日の教育状況と同じです。「青少年非行」が社会問題としてクローズアップされ始めたのとその軌を一にしています。それがまた文部省による「道徳教育」「しつけ教育」などという管理主義教育への傾斜を転たらしているのです。
  
  そのような状況の中で美術教育はどうだったでしょうか。怠惰な放任主義による「自由な絵」、当時流行のように広がったデザイン教育、とりわけ「色と形の基礎練習」などの題材への無批判な適応。まさに″混沌″の一語につきます。そのような流れに対して、”無国籍的な商業主義″だと批判する人や、民主的な立場の美術教師の一部には、生活リアリズムにかわって「認識中心主義」とも言える傾向が生まれました。対象を良く見させ、その「正しい」描写の手だてを順序よく教えることで、子どもの認識や表現力を伸ばすことができるという主張です。私たちは、その正しい描写力とはなにかとか、子どもの内面での創造過程のドラマはどうなるのか、などと疑問を抱かぎるをえませんでした。子どもをとりまく状況は、このような観念的な自由・楽天・技術主義、あるいは一定のモデルに規範をおく成人中心主義ではすでに無力になっていたのです。子どもの発達についての科学的な究明と、発達の土壌としての子どもをとりまく生活文化の再構築と、美術教育との結合が求められていたのです。
  会は、その創立当初から「小、中、高の一貫したつながりを統一的に深めよう」と訴えていたように、発達の系譜を大切にする視点をもっていたことが大きな特徴と言えます。創立者の一人である大勝恵一郎は、著書『美術教育の構造』(上昭二との共著)、『思春期の美学』、高校在職中の実践などの中で、芸術のもつ人間形成的機能についての哲学的・美学的探求と、混沌としている美術教育を人間発達の立場から止揚して統合する理論を提示してきました。1964年の新宿での児童画展覧会も、幅広いジャンルから貪欲に学んできたのも、その姿勢の現れです。
  そのような土台の上に、発達研究について最も先鋭な意識をもって、先導的な役割を果たしたのが事務局長であった鳥居昭美です。当時大塚聾学校の教師をしていた鳥居は、全国障害者問題研究会(全障研)に所属し、新しい教育理論による障害児教育研究運動のめざましい発展の舞台にも参加していました。また、子どもの文化研究所(文化研)の所員として、子どもの文化研究運動を進めていました。浜本は、他の団体の研究の動向や国民的な教育課題について、また、西欧諸国の美術教育界との交流・紹介などによって、つねに全体を鼓舞していました。
  川本久は画塾でのダイナミックな実践とともに、ピアジェやワロンの著作を読みこなして、独自の理論を構築していました。その川本と鳥居・浜本・菅沼の四人で、雑誌「子どものしあわせ」に9回連載で「子どもの絵その意味と育て方」を発表したのはそのころです。このような集団による研究スタイルがその後も会の中に定着していきます。1968年、東京の西のはずれ「芦花公園」での第4回大会に、地域教研の推進者だった滝口泰正、翌第6回大会「読売ランド」には情宣や研究の推進役となる岡崎寛などが参加し始めます。
  1970年、「鳩の巣」での第七回大会は初めて実行委員会体制で取り組まれ、鳥居・浜本・岡崎が中心になって活動家を直接訪問して組織しながら、地域と結びついた大会になりました。地元の郷土芸能や、民具の展示とスケッチは画期的でした。この年にアフリカ日本人学校から帰国した南河宏が再び参加し、機関誌の編集に敏腕をふるうことになります。また、関西からの参加は新見をはじめ5名となり、沢井泰子が手記「美術教育を進める会に、私はなぜ入会したか」(復刊「子どもと美術」馳1)を携えての参加は印象的でした。
  このように、この4~5年間はたくさんのすばらしい仲間との楽しい出会いに満ちみちた時代であり、基礎的な学習を積み上げ、全国組織に飛躍するための「地ならしの時代」と呼ぶことができましょう。

 

(3)機関誌「子どもと美術」の復刊
  研究団体としての姿を着々と形成していった一方で、会員相互の絆である機関誌は創刊から6号(1962年)を数えたまま途絶えていました。そこでまず手がけたのが、鳥居と岡崎によるガリバン刷りの「事務局通信」の誕生です。そのなかで新たな機関誌時代のための準備が進められていました。そして鳩の巣大会後の1970年12月30日付で8年ぶりに復刊「子供と美術」第一号が産声を上げたのです(A4版44ページ)。2号からは「子供-」を「子ども-」に改めて1984年3月までに35号を数えるという成果を積み上げてきました。
  この背景には、1969年を境にして各地にサークルが誕生し、教育科学としての美術教育を現場教師の連帯の力で作り上げようとする熱っぼさが満ちあふれていたことを忘れることはできません。この当時の主なサークルと世話人を上げると、小金井(菅沼・川本)、八王子(藤田)、狛江→後に小田急沿線(刈屋・大平)、板橋(米良・鳥居・南河)、豊島(鳥居・井上憲二)、渋谷(佐藤瑞江子)、横浜(横小路)、新島(駒ケ峰)、関西(新見・田中・高橋・沢井)、京都(村尾)、障害児(鳥居・糸日谷)などです。

 

(4) 造形表現は全人格的な営み
 美術教育を進める会の理論を特徴づけるものは、美術教育における人格形成と結合した発達研究と、そこから導き出された「手しごと・工作」の教育的な位置づけにあることは、今日では多くの人々が認めるところです。そしてそれは、あくまでも現実の教育課題にすべての教師が一致して取り組める、教育の科学としての美術教育の理論と実践をつくりだしていこうとする、創立当時の″呼びかけ″の一定の帰結ではないかと思います。
  この本格的な集団的理論学習のスタートになったのが、1972年1月5、6日に行われた第一回冬季シンポジウム(鎌倉)です(このシンポジウムは着実に継続され今年1992年で21回を数えるに至りました)。ここでの討論のテーマは「人間形成に貢献する美術教育の役割は何か」で、鳥居が「芸術教育は人間教育である」として、「美術による表現学習そのものが全人間的な営みである」ことについて、次の八つの項目にわたって提起しました。
  ① 美術は、子どもの創造性を育てる。
  ② 美術は、子どもの(国民の)美意識を育てる。→情動は8歳で充実し動物的情緒を人間的感性に発達させる要因となる。
  ③ 美術は、生きる自信を与える。→両手を失った障害児や筋萎縮症の子どもでも、足を使って表現し、生きる自信を得ている。
  ④ 労働の過程で美意識は育つ。→美術の表現活動は労働の疎外されていない完全な過程(発想→計画→実践→生産物の 獲得・享受)を自分のものにする喜びを総合的に体験することができる。
  ⑤ 美術は、真実と誠実に生きることを要求する。→他人に頼ったら自分の表現が成り立たない。悪戦苦聞してやり遂げる。
  ⑥ 美術は、自立心・独立心を育て、能動的な人格を育てる。
  ⑦ 美術は、文化を大切にする姿勢を育てる。
  ⑧ 表現の活動は、社会性と集団性を育てる。(大勝のまとめによる「子どもの美術」NO2)
  この提起は、その後のさまざまな理論構築のベースにもなったという意味で、画期的な内容をもっています。また、この年から、冬季シンポジュウム(理論研究)→地域での春の研究集会(実践研究)→春の研究者集会(実践の集約)→夏の全国研究大会(全国的な交流)→秋の研究部会(研究課題の展望)、といったように年間の研究スケジュールが定着しっつある現在、そのきっかけを作った鎌倉のシンポジウムの意義は大きいと思います。

 

  (5) 発達保障論との出会い
     ぴっくりしたこと二つ -田中昌人氏の話を聞いて-                                 滝口泰正   

赤ん妨が寝ている/赤ん坊は寝るのが商売だ/「寝る子は育つ」という/赤ん坊は寝るだけしか能がない/赤ん坊が寝ているのはあたりまえだ/と、誰でも思う/私もそう思ってきた/ところがどうだ!
 赤ん坊が寝ることは/″ひとの能力″だというのだ/こんな話 今までに聞いたこともない/驚いた/全く/驚きというより ひとつの感動だ!                                (以下略)

 1972年、第3回春の研究会(東京)での、田中昌人民の講演を聞いた滝口が、その強い感動を詩に表したものです。私たちは子どもについての見方を感動をもって学んだのです。そしてその後も、第9回、第10回、そしてさらに第21回大会で、というように氏から多くのものを学んできました。はじめは難解であったものが、一つまた一つとしみ込むように栄養になっていきました。底に流れるヒユ-マニズムと、実践に裏づけられた科学的で明快な理論、人間発達への限りないロマンに、氏と全障研の仲間たちの発達保障の理論に、深い敬意と共感を覚えたのです。 私たちは、子どもは外界に働きかけて変革しながら、自ら発達する生命体であることを、美術の学習を通してすでに見ていました。そこに氏の理論に接っして、新しい境地が開けたのです。すなわち、発達の節と節におけるつまずきを詳細に見ることで明らかになった「発達のうえで必要不可欠なものについて」は、私たちに大きな確信と未来展望を与えました。また、「話し言葉獲得期の子どもに必要な精神的栄養の基礎成分」→①手の動き、②手の働きを太らせる道具、③変化する素材、④なかま(集団)。
  また、「発達の三つの系」→①個人の発達の系、②集団の発達の系③社会体制の民主化の系は、一貫した羅針盤の役目を果たしています。


  (6) 「手しごと・工作は子どもの発達の水源地」
  1971年、第9回大会(小諸)は、手しごと・工作教育の今日的意義がより鮮明に意識された大会でした。単に楽しい活動だからというのではなく、発達にとって不可欠な活動としての意義がより明確になった大会でした。鳥居は著書『子どもに道具を贈ろう』で大きな反響を呼んでいたし、井上憲二は「工作は子どもの正当な要求である」として実践を展開していました。また菅沼は、学校ぐるみの取り組みの中でその本質を模索していました。
  いずれも当時の労働疎外の状況が深刻化し、多くの識者や良心的な教師が心配する中で、明確な方向を模索しながら実践的に明らかにしていったのです。菅沼・井上(憲)が中心になって、この大会で初めて設置された「工作分科会」は、浅間高原の草原の中で語り合われました。その当時は、美術教育団体で「工作」をテーマにして取り組んでいるところはほとんど見あたらない状態でした。
  このとき初めて菅沼が.「オカリナ」づくりの実践を報告し、教師自身がつくることの大切さを訴えました。オカリナづくりの虜になった参加者たちは、夜になってもあちこちで吹き鳴らす音が止まず、運営委員を悩ませたものです。講演者であった増田孝雄氏が「これこそがはんとうの教材だよ」と絶賛していたのが印象に残っています。
  こんなことがきっかけの一つとなって、翌年の第10回大会(比叡山)では、いくつものコナーからなる「実技祭り」へと発展し、それが今日まで発展的に受け継がれています。 
  翌1974年、全国教育研究集会(山形)に東京代表として、菅沼が「作って遊ぶ展覧会」の実践をもって参加します(鳥居、南河も参加)。そのときの南河の発言は、工作の教育的な意義を明確に訴えたものとして、歴史に残るものでした。「労働とは、人間が自然に働きかけて新しい価値あるものに作り替えることによって、生活を変え、その過程で我々自身をも変えていくことです。子どもはこの労働によって発達が保障されるのです。とくに美術教育では、遊びや手の労働こそ発達の水源地です。」(「子どもと美術」1974年8月号)

 

 (7) 全国組織への飛躍
  1973年、第10回大会(比叡山)は会が初めて関西の地で400名以上の参加者を結集して成功し、名実ともに全国組織への第一歩を踏み出した記念すべき大会となりました。その準備のために、大阪の新見宅に東京の仲間が合流し、ここに佐藤恒がはじめて実行委員として参加します。1974年、第11回大会(三河)、第12、13回大会(上山田)、第14回大会(下呂) へと夏の全国大会は年ごとに発展を続け、参加者は400~600名へと増えていきました。また、下呂大会では、全国の民主的な保育運動のリ-ダーの一人である秋葉英則氏の講演が契機となって、保育運動に連帯した幼児分野の実践・研究も飛躍的に前進しました。地域的にも北は北海道、南は沖縄からも参加者を迎えることができるようになり、全国運営委員会の組織も充実していきました。その中で、糸臼谷敬一、伊藤幸子、遠藤則子、遠藤毅、中村昭三、三科英子たちというような若い仲間の参加が会の発展にはずみをつけました。また、長期間にわたって東京・千駄ヶ谷の中村潤子宅のアトリエが、事務局の仕事場に解放されて、大きな支えになっていました。
  さらに大きな質的転化の要因は、地方に次々と強力なサークルが生まれていったことです。すでに活発な活動を広げつつあった関西サークルは、新見俊昌、沢井泰子、高橋宏、田中保男、坂井理らの強固な核をもち、高知では門田雅人がそのバイタリティで大きなサークルを組織していました。青森では道合政邦がねばりづよく奮聞し、名古屋では中村凡之、池内政之らが活動を開始していました。
  このような量的広がりが、やがては「人格形成(人格の発達)と結合した美術教育」への理論構築、その集約としての「発達図」そして、さらに豊かな実践を生み出していくことを可能にしていきます。        
                                                           (菅沼)